💔裏切られたのに、いちばん傷ついたのは「自分を嫌いになったこと」だった
人に裏切られたとき、
本当につらいのは“失った信頼”よりも、
“信じた自分が許せなくなること”かもしれない。
「なんであんな人を信じたんだろう」
「疑うチャンスはいくらでもあったのに」
「私って、ほんと見る目ないな」
誰かに傷つけられたはずなのに、
その怒りの矛先が、
気づけば“自分自身”に向いてしまっている。
それが、裏切られたときの本当の地獄だ。
🧩 「裏切り」は一瞬。でも、「自己嫌悪」はずっと残る
誰かを信じるというのは、
その人に“未来”を預けるような行為だ。
「この人なら大丈夫」と、自分の判断で決めたこと。
だからこそ、裏切られたときには、
ただ傷つくだけじゃ済まない。
「あのときの選択が、全部間違ってた」
そんなふうに、自分の過去が否定されてしまう。
そして最終的にはこう思ってしまう。
「信じた私がバカだった」って。
🧱 「怒り」が消えると、「嫌悪」が残る
裏切りにあった直後は、
たしかに相手への怒りが強い。
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どうしてそんなことをしたの?
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あんなに信用してたのに
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こんなに傷つけるなんて最低だ
けれど、時間が経つと、怒りは少しずつ薄れていく。
そのあとに、もっと厄介な感情がやってくる。
「私はなぜ、それを見抜けなかったんだろう?」
過去のやり取りを何度も反芻し、
兆しに気づけなかった自分、
「信じたい」という気持ちを優先した自分を、
静かに、そして容赦なく責めてしまう。
💬 「信じたことが間違い」だと思ってしまう世界の残酷さ
世間では「人を疑うより信じる方がいい」と言われる。
正直であること、優しいこと、誠実であることが美徳とされている。
けれど、現実ではその優しさが、
“都合よく利用されるリスク”と隣り合わせだ。
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やさしい人ほど、騙される
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純粋な人ほど、裏切られる
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「信じたい」と思う人ほど、損をする
そんな経験を一度でもすると、
「信じること」そのものが怖くなる。
そしてさらに深いところで、
「信じた自分」が、もっと怖くなる。
🪞 “裏切った人”より、“裏切られた自分”に失望してしまう瞬間
傷つけた相手よりも、
「そんな相手を信じた自分」の方が許せない。
これは、誰にでも起こり得る心の動きだ。
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あのとき何かおかしいと感じていた
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本当は少し、引っかかっていた
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でも、それを見て見ぬふりをした
つまり、「騙された」だけじゃなく、
“騙されることを許してしまった自分”に絶望してしまう。
この自己嫌悪は、時間が経ってもなかなか癒えない。
🧘♀️ 「信じたこと」は、間違いじゃない。傷ついたのは、“あなたが真剣だった”証拠だ
信じたことが悪いわけじゃない。
むしろ、誰かを信じようと思えた自分は、ちゃんとまっすぐだった。
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人を信じるって、実はすごく勇気がいること
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期待するって、心を開かなきゃできないこと
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好意を持つって、自分を差し出すことでもある
裏切りにあったからといって、
それらすべてを「間違い」と決めつけてしまうのは、
自分自身の優しさや誠実さまで否定することになってしまう。
💡 自分を責めることで、「次」を守ろうとしているだけかもしれない
自己嫌悪に陥る人の多くは、
「二度と同じ思いをしたくない」という気持ちが強い。
だからこそ、自分の判断ミスを責めることで、
未来への“予防線”を張っている。
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あのとき信じた自分が悪い
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もっと疑うべきだった
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次は、もう誰も信用しない
そうやって、「また傷つかないように」と、
心が自分自身を“監視”しはじめる。
でも、それは同時に、
人を信じることすら怖くなるという、
“人間不信”という副作用も引き起こす。
🤝 信じた自分を、少しずつ許せたときに、世界が変わり始める
「裏切られた過去」を抱えて生きていくことは簡単じゃない。
でも、その痛みの奥には、
「本気だった自分」がちゃんと存在している。
信じたこと、期待したこと、愛したこと。
それはどれも、本来なら恥じる必要のないもののはずだ。
だからこそ、こう思ってみてほしい。
「私はバカだった」のではなく、
「私はそれくらい真剣だった」のだと。
✨ まとめ:「信じた自分」を責める必要なんて、どこにもない
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裏切りの痛みの本質は、「自分への失望」からくる
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相手より、自分を許せないときほど傷は深い
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信じたからこそ傷ついた。それは「弱さ」ではなく「誠実さ」
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自分を責めるのは、もう同じ痛みを避けたいから
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信じた自分を許せたときに、初めて次の一歩が踏み出せる
誰かを信じたあなたは、何も間違っていなかった。
その純粋さを、どうかあなた自身が傷つけないでほしい。
裏切った人は、その人自身の問題。
でも、その人のせいで“あなたの良さ”まで消さないで。
信じる心を持っていたことは、
決してあなたの弱さではなく、
「誰かとちゃんと向き合おうとした強さ」の証拠です。